山梨市の概要
山梨市は、山梨県の中央部、甲府盆地の北東部にある副盆地上に位置し、気候は、冬夏で寒暖の差が激しい地域です。市域の中央部には、笛吹川が南北に縦貫し、重川や日川と共に氾濫原や扇状地を形成しています。市域では、国道140号線の雁坂トンネル(一般国道の山岳トンネルとしては、日本一の長大トンネル)の開通により、埼玉県と繋がり、北の玄関口として北関東方面からのアクセスが向上しました。また、明治36年(1903年)に開通したJR中央本線開通により、都市化が進展しました。産業は、モモ・ブドウ・サクランボなどの果樹栽培が盛んで、甲州ワインの産地として知られています。
山梨のあゆみ
山梨市では、約6000年ほど前から人が生活していたことがうかがわれます。古宿遺跡からは、縄文時代の敷石住居が2ヶ所発見されており、炉や瓶、採集した実を粉にした石皿、また、祭祀に使われた石棒などがあることで、そのころの狩猟採集生活を知ることができます。さらに、昭和48年(1973年)には、平安時代の竪穴住居の釜戸跡が一基発見されています。
古墳時代後期のものと知られる岩下古墳群は、前期のものに比べて、墳丘が小さく、石室が大きく造られています。前期の古墳は、竪穴式石室が多いのに対して、後期古墳は、横穴式石室がほとんどです。現在、石室のほぼ完全なものは、県内でも有数の大型石室をもつ古墳、天神塚と牧洞寺古墳の2基で、半壊が山寺観音塚、長源寺前の3基とされています。
中世を知る上で、市域内の牧荘・小原付近の小原荘・八幡から、当市南部一帯の地域にあったとされる大八幡荘が記録に残されています。平安末期、小原(現在の山梨市小原)には、甲斐源氏の安田氏の館が措かれましたが、鎌倉時代に入って衰微しました。鎌倉時代から戦国時代にかけて、甲斐国は守護である武田氏の支配下にあったとされていますが、牧荘については、鎌倉時代後期に二階堂氏の所領となっています。
中世を代表する天神社本殿は、山梨市大工の丸山家所蔵の古文書や『甲斐国志』の中で、武田氏の崇敬を受けていると記されています。大永2年(1522年)、この本殿は、武田信虎によって再建されました。他にも、永昌院菊隠録(えいしょういんきくいんろく)は、永昌院第2世菊隠瑞潭の永正2年(1505年)から大永4年(1524年)に至る間の法語集で、甲斐の中世史を研究する上で、欠くことのできない史料とされています。
また、永昌院は、かつて、禅定院という真言宗の寺でしたが、文明年間(1469年〜1487年)、武田信昌が一華文英禅師(武田信昌の従兄弟にあたり、後柏原天皇から神嶽通龍禅師の号を賜った名僧)を迎え、曹洞宗の寺として開基しました。その後、この寺は甲州・武州にかけて96ヵ寺の末寺を有する甲州曹洞宗常法幢(じょうほうどう)七刹のひとつとして栄えました。末寺96カ寺の大半は、雁坂峠(かりさかとうげ)を越えて秩父地域一帯にありますが、これは、武田が関東へ勢力を伸ばして活躍した時代の情報拠点だったといわれ、江戸中期までは、禅林(僧の修行所)として、常時80人ほどの修行僧が住んでいたといわれています。しかし、明治42年(1909年)の火災で堂塔伽藍のほとんどを焼失し、その後、現在の本堂、開山堂、書院、庫裏などを再建し、焼失を免れた三棟と十数棟の伽藍が維持され、往時のたたずまいと、面影が保たれています。
江戸初期には、幕府領と、徳川五太郎・忠長など一門領、甲府藩領(徳川綱重・綱豊)と交代があり、これに多数の旗本知行地が介在しています。甲斐の国・山梨郡・万力筋と称され、およそ1300年の歴史のある地域となりました。
甲斐の国・山梨郡として治められた山梨市は、昭和29年(1954年)に市制施行し、その後、平成17年(2005年)3月に、山梨市、牧丘町、三富村が合併し、新「山梨市」として新たな市政を歩み始めました。
山梨の名前の由来
「やまなし」の由来は、果物のヤマナシが沢山採れたから、山をならして平地にした「山ならし」から変化した、などの諸説があります。
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山梨市立図書館 |
| 住所: |
〒405-0031
山梨県山梨市万力1830 [地図を見る] |
| 電話番号: |
0553-22-9600 |
| 開館時間: |
火曜日〜木曜日、日曜日9:00〜17:00、金・土曜日9:00〜18:00(7月〜9月の間は18:00まで) |
| 休館日: |
月曜日、祝日の翌日、年末年始、特別整理期間 |
| 入館料: |
無料 |
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